ホンタイジ (皇太極)は清朝の第2代皇帝。本名はヘカン。皇太極は皇太子、黄台吉とも表記される。
皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチは死ぬ時にそのことに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(実録)にはホンタイジは何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。
ライバル医学専門サイト
めだかのがつこうショッピングライフサーチ
海外留学・検定関連まなび学習ナビ
ニューラフォレ 国内 宿泊ナビ
ヒナスミレコスメ販売ナビ
ラッグテール ビジネス支援紹介
ミニオン生活紹介ナビ
スコッチ女性の健康全国情報ガイド
レフティショッピング検索サーチ
学習教材・プリスクール関連教育サーチ
ホンタイジがヌルハチの後を継ぐと、朝鮮が後金に叛いて親明政策を取るようになった。後金は明と断交しているために、当然朝貢が出来なくなっていたが、朝貢の利益は後金にとって非常に重要だったので、それまでは朝鮮を抜け道として間接的に明と通商していた。しかし朝鮮が叛いたことによってこの道が絶たれ、後金の国内には出荷することのできない朝鮮人参や貂の毛皮などが山積みになってしまった。また西のモンゴルのチャハール部も明と同盟を結び、後金に敵対するようになった。
この状況を打開するため、ホンタイジは1627年(天聡元年)に従兄アミンを朝鮮へ遠征させ、これを屈服させた(丁卯胡乱)。さらに1631年(天聡5年)にはチャハール部のリンダン・ハーンに勝利し、1635年(天聡9年)にはチャハール部を組み入れ、元の玉璽をリンダン・ハーンの息子エジェーイから譲り受けた。また、1632年(天聡6年)、ヌルハチはダハイ(達海)に命じて満州文字を無圏点文字から有圏点文字に改良した。
1636年、ホンタイジは玉璽を手に入れたことを機に満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けた。すなわち国王から正式に皇帝となり、国号を大清とし、あわせて改元を行って崇徳とした。また、ホンタイジは皇帝即位の前後から兄や従兄である重臣たちを失脚させ、権力を自身に集中させている。また明に倣って六部を創設し、漢族官僚を登用することでそれまでの部族連合体から中華的な中央集権帝国への移行を目指した。
1637年、ホンタイジの皇帝即位を認めないことを表明した朝鮮を親征して再び討ち(丙子胡乱)、朝鮮と明の冊封関係を絶つことに成功し、朝鮮を清の冊封国とした。
東北部を完全に掌握したホンタイジは明の領内への侵攻を目指すが、要衝山海関の守りは堅く、明の征伐を果たせぬまま1643年に急死した。死因については、脳出血等の疾患によるものだったのではないかとする研究がある。遼寧省瀋陽市の北にある、昭陵に葬られた。